マックス・ヴェーバー




私が墓場に行かねばならぬ時、私の腕にはもう重い、我が子よ、汝我にかわりてこの槍を持て、
という場合、ここにいるマックス・ヴェーバーをおいて他にはいない。

テオドール・モムゼン


両人とも、マルクスは直接に、ヴェーバーは間接に市民的資本主義経済を基軸として、市民社会における今日の人間の、批判的分析を提出する。その際基礎となるのは、経済が人間の運命になったという経験である。

マルクスが治療法を与えているのに対して、ヴェーバーは一個の診断を下したに過ぎない。

カール・レヴィット




この末人達にとっては、次の言葉が真理となるのではなかろうか。精神のない専門人、心情のない享楽人、この無のものは、人間性のかって達したことのない段階にまで、すでに登りつめたと自惚れるであろうと。


国民は利益の侵害は許しても、名誉の侵害、中でも説教じみた独善による名誉の侵害だけは断じて許さない


人が心情倫理の準則の下で行為するー宗教的に言えばキリスト者は正しきを行い、結果を神に委ねるーか、それとも人が予見しうる結果の責任を負うべきだとする責任倫理の準則の下で行為するかは、底知れぬほどの深い対立である


あるものは美しくなく神聖でもなくまた善でもないかわりに真ではあり得るということ、否、それが真であり得るのは美しくなく神聖でもなくまた善でもないからであるということ、これは今日むしろ常識に属する


人間の行為を直接に支配するのは利害関心(物質的並びに観念的)であって、理念ではない。しかし理念によって創り出された世界像は、極めてしばしばターンテーブルとして軌道を決定し、そしてその軌道の上を、利害の原動力が人間の行為を推し進めてきたのである。

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