日本哲学







読書の時間を作るために、無駄に忙しくなっている生活を整理することができたならば、人生はそれだけ豊富になるであろう。読書は心に落着きを与える。そのことだけから考えても、落着きを失っている現代の生活にとって読書の有する意義は大きいであろう。


昔から同じ教訓が絶えず繰り返されてきたにもかかわらず、人類は絶えず同じ誤謬を繰り返しているのである。


そのうえ自分の専門以外の書物から、専門家が自己の専門に有益な種々の示唆を与えられる場合も少くないであろう。


人は常に源泉に汲まねばならぬ。源泉は常に新しく、豊富である。原典を読むことによって最も多く自分自身の考えを得ることもできるのである。


一冊の書物を読んで、ひとりの著者でなくひとりの人間を見出すとき、我々の悦びは大きい。


善い思想が必ずしも真なる思想であるわけでなく、危険な思想が必ずしも偽なる思想であるわけではない。


先づ必要なことは、哲学に関する種々の知識を詰め込むことではなくて、哲学的精神に戯れることである。これは概論書を読むよりももっと大切なことである。そしてそれにはどうしても第一流の哲学者の書いたものを読まなければならぬ。


多くの人々は人生の問題から哲学に来るであろう。まことに人生の謎は哲学の最も深い根源である。哲学は究極において人生観、世界観を求めるものである。ただその人生観或いは世界観は、哲学においては論理的に媒介されたものでなければならぬ。


教科書というものは、どのような教科書でも、何らか功利的に出来ている。教科書だけを勉強してきた人間は、そのことだけからも、功利主義者になってしまう。






善を学問的に説明すれば色々の説明はできるが、実地上真の善とはただ一つあるのみである。即ち真の自己を知るというに尽きて居る。我々の真の自己は宇宙の本体である、真の自己を知れば啻に人類一般の善と合するばかりでなく、宇宙の本体と融合し神意と冥号するのである。宗教も道徳も実にここに尽きて居る。


数理を解し得ざる者には、いかに深遠なる数理も何らの知識を与えず、美を解せざる者には、いかに巧妙なる名画も何らの感動を与えぬように、平凡にして浅薄なる人間には神の存在は空想の如くに思われ、何らの意味もないように感ぜられる、従って宗教などを無用視している。


回顧すれば、私の生涯は極めて簡単なものであった。その前半は黒板を前にして座した、その後半は黒板を後ろにして立った。黒板に向って一回転なしたといえば、それで私の伝記は尽きるのである。


人は人吾はわれ也とにかくに吾行く道を吾は行なり


あたごやま入る日の如くあかあかと燃し尽くさんのこれる命


一脈相通ずるに至れば、暗夜に火を打つが如く、一時に全体が明となる。偉大な思想家の思想が自分のものとなる、そこにそれを理解したといい得るようである。






現在の社会組織や教育などというものが、知らず知らずの間にどれだけ人と人との間をへだてているかということにも気づきました。心情さえ謙遜になっていれば、形は必ずしも問うに及ばぬと考えていた彼は、ここで形の意味をしみじみと感じました。


これは彼にとって実に思いがけぬことでした。彼はこれらの人々の前に謙遜になろうなどと考えたことはなかったのです。ただ漫然と風習に従って土下座したに過ぎぬのです。しかるに自分の身をこういう形に置いたということで、自分にも思いがけぬような謙遜な気持ちになれたのです。


人類の教師たり得るような智慧の深さや人格の偉大さは、大衆の眼につきやすいものではないのである。


あたり前の現象として人々が不思議がらない事柄のうちに不思議を見出すのが、法則発見の第一歩なのである。


誰でも自分自身のことは最もよく知っている。そして最も知らないのはやはり自己である。「汝自身を知れ」という古い語も、私には依然として新しい刺激を絶たない。


成長を欲するものはまず根を確かにおろさなくてはならぬ。上にのびる事をのみ欲するな。まず下に食い入ることを努めよ。


古来の偉人には雄大な根の営みがあった。そのゆえに彼らの仕事は、味わえば味わうほど深い味を示してくる。


私は近ごろほど自分が日本人であることを痛切に意識したことはない。そしてすべて世界的になっている永遠の偉人が、おのおのその民族の特質を最も好く活かしている事実に、私は一種の驚異の情をもって思い至った。最も特殊なものが真に普遍的になる。


私は、「人静月同照」という掛け軸を、今でも愛蔵している。これは漱石の晩年の心境を現わしたものだと思う。人静かにして月同じく眠るのは、単なる叙景である。人静かにして月同じく照らすというところに、当時の漱石の人間に対する態度や、自ら到達しようと努めていた理想などが、響き込んでいるように思われる。




愛を知らぬ者が
本当の強さを手にすることは永遠にないだろう

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