人生は苦しみと退屈の間を、絶え間なく揺れ動いているようなものだ


全ての人間の一生は、全体として通観すると、一つの悲劇であるが、部分的に眺めると、一つの喜劇である


われわれに与えられているものは、いつもただ欠乏、すなわち苦痛だけでしかなく、満足もしくは享楽にいたっては、それが始まると同時にもう終わってしまった少し前の苦しみや欠乏の思い出を通じて、かろうじて間接的に認識できるものでしかあり得ない。


願望が満足されると、その願望も、したがってまた享楽もなくなってしまうであろう。そういうわけだから満足とか幸福とかいってみても、それはなんらかの苦痛、なんらかの困窮からの解放という意味以上のものではあり得ない。


すべてに打ち克って目的に達したとしても、それで手に入れることといえば、たかだかなにかの苦悩や願望から解放されたということ以外のなにごとでもあり得ない。ということは、苦悩や願望が出現してくる前の状態に戻ったということだけのことなのである。


学者とは様々な書物を読んだ人のことである。思想家・天才・世界の啓発者・人類を進歩させた者は、直接に世界という本を読んだ人のことである。


才人は、誰も射ることのできない的を射る。天才は、誰にも見えない的を射る。


人間は、自分の頭脳や心を養うためよりも何千倍も多く、富を得るために心を使っている。しかし、私達の幸福の為に役立つものは、疑いもなく人間が外に持っているものよりも、内に持っているものなのだ。


真の思索者は君主に類似している。彼は誰の力も借りず独立の地位を保ち、自らの上に立つ如何なる者も認めない。その判断は君主が決定するように自らの絶対的権力から下され、自分自身にその根拠を持つ。すなわち君主が他人の命令を承認しないように、思索者は権威を認めず、自分で真なることを確かめたこと以外は承認しないのである。


真の詩人の抒情的作品は、千万年を貫いて真実で、感化を与え、またつねに新鮮である。